昭和45年03月14日 朝の御理解



 御理解 第42節
 「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心は、もうとまっておる。これは、まだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」

 これほど信心するのに、どうしてこういう事が出来るであろうか。いわゆる信心しておっても、やっぱり世間一般様々なことがある。とりわけ自然の働きと、いうものは信心しておるからどうこうということは無い。信心しておる者でも、していない者でもやはり、暑い時には、暑い寒い時には、寒いのである。信心しておるからどうしてこんなに寒いだろうかということは無い。そういう自然の働きなのですから、ならこれが人事であっても、同しことです。人事というのは人事(ひとごと)であっても、同じ事。
 問題は信心というのは、そういう暑いなら暑い、寒いなら寒いにつけてです、本当に寒かったおかげでこの様なものがでけましたと。暑いおかげでこういうおかげを受けましたと、この言えれる程しのおかげを頂き、そしてそれを現して行く事が信心なのだ。信心しておって、どうしてこの様な事が起きるであろうかという時には、信心がもうとどまっておる。止まっておるという事は、所謂その神様と私共の間に、の断絶です。ね、最近の言葉で言うと断絶時代なんていうことを申します。
 いわゆる親と子の断絶なんです。いわゆるその思う事考える事、所謂主義主張が若いもんと年寄りが違うところに、そこに断絶を感ずるのである。ね、だからそれはやっぱり違いましょう。私共の若い時と、今の若い人達との考え方が違うように、違いましょうけれどもです、そんなら、若い者が、年寄りの気持ちを分かろうと努め、年寄りがまた若い者の気持ちを、分かろうと努めおうていくところにね、お互いの心が相通じ合い、合い分かるところにです、そうでもあろうという事になってくる。
 ですから私共がどうしてこの様な事が起きるであろうかと思えば、もう信心はとどまっておると。だからどうしてこう言う事が起きるであろうかと。ね。信心しておってもどうして、この様な事が起きるであろうかと言う事はです。所謂神様と私共の間に断絶が出来るというのは、神様の心が分からんからなのです。神様の心が分からないから、そう思うのである。どうしてこの様な事が起きるであろうか。
 だから私共がです。いわゆる神の綱が切れたというが、神からは切らぬ氏子から切るなと、御教えに御座いますね。ご理解に御座います。例えばはぁと嘆息が出るような時、はもう、神も仏もないものかと言うときにゃ、もう既に神の綱が切れたのかと言うのである。けれども神からは切らぬと仰せられる。氏子から切るなと仰せられる。ね。そういう時にです、ね、神の心が分かっておくとです切れない。
 私共はね神様と私共が、いつもどんな場合でも交流というかね、つながりがあらなければならん。ね。そこん所を一つ、信心させて頂く者の心がけなければ。信心しよったっちゃあんたこげな事なら、せんほうがよかたい。と言う様な事を申しましょう。だからこう言うことは、金光様の信心を頂いておっても、教えを頂いていない人の言うことなのです。または信心のない人の言うことなんです。
 日頃教えを頂いて、神様の心が少しでも分かっておるならです、そんな事は勿体のうして言われるこっじゃありません。ね。お話を頂き御教えをいつも受けておるなら、そういう事はそれこそ思いも出来ません。それこそ次の所に有ります様に、是はまあだ私の信心が足りぬからじゃという心しか生れて来ないと思う。ね、是はまだ私の信心が足りぬのじゃと思うて、一心に信心をしていけば、そこからおかげが受けられる。
 そこからおかげが受けられる。ね。神様との断絶を所謂断絶時代を作っては、ならないという事。ね。所がね実際信心しておっても、様々な難儀な問題が、言うなら降ったり照ったり致します。すと降ればしるしいし、矢張り照れば暑いし。ね。ですからこの辺の所が、どう言う事になっとかなければならないかと。そういう時にゃね、一つおみくじを引いておかなければいけません。
 教祖の時代にはね、このおみくじを引いて下されというて願いにくる氏子が多かった。ね。おみくじを上げてくだされ。おみくじと言う事は、分かるですね。お寺さんやらお宮さんなんかに参りますと、今なら今は20円ぐらい入れないけんでしょうね。きっと。入れると、そのおみくじが出てくるです。それに大吉とか悪とか、ね、吉とかっていうのが出てくるわけです。
 あれはどう言う事かというと、結局信心のあれは、無い人達のする事でしょうね。けどその時だけは、神様とのつながりを持とうとするわけなんです。ね。そうでしょが。ね、だから信心のある者は金の0円でも入れてから、いっちょ引いてみろうと言う事はです、神様とのつながりを作ろうとする心なのです。ね、ですからやはりですね当たるです。ね、なぜかというと心を神様に向けてるんです。
 心をね神様と通わせようとするあれは、働きなんですから。ね。いつだったか、高芝さんが、なにかまだ税務署に勤めておられる時分に、まあ難しい試験があったんですよね。まあそういう時にゃ、解らん時には鉛筆をこう立てる。ね、そして答えが分からん時にゃ、今のはもういくつでん答えが出ておって、それを丸をつけるのでしょうが。ですから鉛筆立てて、生神金光大神様ち言うちから、右に倒れたらどう。
 左に倒れたらどう。と自分の心へいわゆるそういう考え、そういう考えをして下さいち言う。おみくじをしてから。それでみんなその答えを書いていったっち。そしておかげでみんな合うとったっち。生神金光大神様と言う事は、もうすでに神様へ心を向けた事だしですね、その神様の心を知って、その心で決断しようと言うわけなんです。是なんかはですね、まあ私はそれを進めはしないけれど、ね。
 愈々ん時には矢張りね、右か左を決めてどうでん分からんと言う時にゃ、そうするがいいです。昔やくざもんなんかがやったでしょ。ぱあっとサイコロを振るとかね、自分がかぶっておるその三度傘をぱっと上に上げて見てですね、そしてそれが右に落ちたら右。左に落ちたら左というふうに道を決めていくと。是はですねもう自然のなにかそういう偉大な働きという、いうならば神様の働きによろうとする是は心なのですよ。
 自分では分らんて言うのですから。だからそこに何かに縋ろうとする心ですから、なにかそこに自然の働きの中にですね、右左を定めて下さる。おかげを受けられるですね。ですからね、私共でもあの教祖のいわゆる教祖時代におみくじを上げて下さいというて、まあ願いに来た氏子に対して、所謂おみくじを上げておられる。と言う事は、御神意を伺って行く。その意味は解りませんけど、そう言う様な事が残っております所を見ますと、やはりおみくじを上げておやりになったのではないでしょうかね。
 だから私共がですね、そういう時に神様との是は又、私共の今日私が言うていおるのは、また別ですよ。神様はずっと頂き続けておるのある。頂き続けておるけれども、断絶あわやなろうとする様な時があるのです。どうしてこの様な事がと言う様な事が。ね。そういう時にです、例えばおみくじをあげますとです、例えばおみくじをあげますと、例えば悪なら悪。というかね悪いおみくじが出た。
 それには「お前はこういう行いをしよろうが、こう言う事を考え方、その間違った思い方をしとろうが、それではいけんからこうしろ」というふうに示してあるから「はあ、成程そうどこじゃない」と自分の心に思うて、それを改めて行こうとするから、神様との切れ間が無い。ね。どうしてじゃない、成程こう言う事になる筈だというものが分かってくる。そうですよね。だからそこに断絶所謂信心は、もう止まっておる。
 どうしてこの様な事がと思うたら、もう信心神様との断絶になっておると。だからその断絶を作ってはならない。是はまだ信心が足らぬからだと一心に進めていく、その進めて行く事の為にです、一つおみくじを上げてみれと言う訳なんなんですね。一段と信心を進めていくと言う事でもです、ならどの様に進めて行ったらよいかと。今まで日に一ぺん参りよったん、二へん参ろうと。
 言う様な事もいいかも知れません。けれどもなんというても矢張り、金光様の御信心は自分の心に、矢張りその事を分からせて貰うおかげを頂かねばならんと思うです、ね。今日私はこの42節を頂いて、今是とこれ私はおみくじと言う所を頂いたんですけれども、ここに。昨日13日会の日に原紋太、原節子とお届けがあっとるところがあります。続いて、そこをこう頂くんですよね。
 原紋太というのは、もちろん原さん達ご夫婦のことですけれど、その原という事は、私は原と言う事は、心と頂かなければなるまいと思うんですね。原。あれは腹が悪いと言う事は、心が悪いと言う事なんですから。腹。ね。紋太と言う事は、糸偏に文と言う字が書いてあります。そして太は太いです。ね、糸偏に文という事は、これはつながりと言う事。例えば「文通をする」というでしょ。
 文通をしておる間は、もうその人と繋がっておる時なんです。まだ天地の親神様と私共のつながり腹、いわゆる心が神様といつも文通がでけておるね。通うておる。だから小さい信心じゃでけん大きな信心。いわゆる紋太の太は太いと書いてある。大きな信心をさせて頂きたい。原節子というのは勿論原は腹。私共の心にどの様な場合でも、いつはぁ是が節だなあと感じる。ね。節という字は節という字が書いてあります。ね。
 皆さんもご承知のように、あちらの奥さんもだいたい体が非常にまあ、大変な病気をだいたい持っておられるんです。まあ日々こうやっておかげを頂いておるということが不思議なくらいにある。信心のない時にはあぁこうだったあぁだったと。それで矢張り時々、顔がこう腫れなさったりする。そういう時に「はぁ自分の健康の御礼の足りん印だと。」いわゆる健康のうえにひとつの節が来とると思うて。
 御礼の足りなかったことを、御礼を申され、改まってまたそこからお願いをしていかれることによって、また健康を保てさせるというのが、原さんの健康状態なんだ。だからいつも自分の健康と言う事によって信心が、いつもいよいよ神様との交流が深うなっていかれておるというわけなんです。昨日は皆さんもご承知の様に、十三日会でしたがね、まあ合楽で信心の稽古をさせて頂いておる者なら。
 この十三日会をもう大変な思いでですね、言わば楽しんで待ってる訳ですね。もうせめて十三日一月の間の一日、この十三日という日は、日頃はもう私共が願いに願って、いつもご無理ばかり申し上げておる訳でありますけれどもです。せめて十三日という一日はです、神様の願いが成就される日としてです、午前中は御用奉仕でもさせて頂いて、午後からは愈々皆が一月に一ぺんの、待ちに待っておる信心の共励をです、させて頂こうと。もうそれこそがっちりというかですかね、もうばっちりとでも言うでしょ。
 最近の言葉でよく。あぁ4時までですから、もう本当にみっちりと信心の稽古が出くる。もう昨日なんかは、もう実にもうなんというですかね、会場全体が熱気を感ずる様なもの。もう皆んながいわゆる感動が湧いて来る様なもの。嘉朗さんじゃないですけども、今例えば話せと言われても、感動でお話が出けないと言う位に、と言う様な雰囲気の中に、信心の共励がでけた。
 もう原さんなんかはもうそれをまあ、皆さんも御承知の様にああして信心好きでもおありになりますし、もうそれこそ楽しみ楽しみでおられるにも拘らずです。昨日は出てこられなかった。というのはね、昨日は2回もその、倒れなさったらしいですね、お便所かなんか行って。それで昨日はお父さんが、いわゆる原紋太さんが、あぁお参りしておられましたが、そのことのお届けがあった。ね。
 これ程例えば「十三日会を私は、楽しんでおりますのに、日々の信心をさせてもろうて、十三日会にはその仕上げのように、自分の信心の発表でもさせて頂きたい思いで一杯でございますのに、神様どうしてこういう私が倒れなければならない、お参りも出来ない。出来ない様な事になったのでしょうか」と、思いそういう思いがね、しなさるだろうと思います。あれだけ熱心ですから日頃。事もあろうに今日は十三日。
 というそういう合楽で一番大事にする日に、そうして倒れると言った様な事は、どうした事だろうかと思われるだろうと。そういう時にです。私は腹いわゆる心に節をね、言うなら節を感じる。しかも、今日は神様の願いが成就するという日がです、この様な形で神様の願いが、原節子の健康の上に現れておるんだという頂き方。そうすると御礼を申し上げるよりほかにないようですね。自分の健康の上に、ね、節が。
 しかもそれはです。ね。神様の願いが成就するという、例えばそのことによって成就する。原さんの上に。そこに、もう一段深く、分からせて頂かなければならないことが、でけるのじゃないか。そういう節のおかげでです。その節の次が、また、変わった、伸びた信心がでけるということになるのじゃないでしょうか。まあこれは原さんのことですけれども、ね、これだけ信心するのに、どうしてこの様な事が起こったであろうかと、なんとは夢思いもなさいますまい。けれども十三日の日であったためにです。
 無念だ残念だと思いなさったと思うんですよ。けれどもね、それほどしに、また私は、いうなら腹に心にです。ね。これは健康だけのことではないかもしれませんけれども、「健康の上にも節が来たな、さあこの節を元気な心で、受け抜いて一段と健康の上にもありがたいおかげを頂かしてもらわな」というその心がです、私は大事だとこう思うのです。だからある意味においてです。
 矢張り愈々の時に矢張りみくじをあげてみなければならないことが分かりますね。神様に伺うてみなければ分からない。それは、まあ言うと、自分の心に伺うてみると、わが心の神に伺うてみるといことにもなりましょう。「今日は、十三日という日に、どうしてこういうことが起こっただろうか」とおみくじをあげて、そしたら、そこに、おみくじに答えが出てきた。「はあ、なるほどそうだと分かる。」
 そこから、その節を乗リ越えることが出来る。乗り越えるだけじゃない、その節を境にまた、一段と健康なら健康の上にまたは、いろんな問題の上にもです、一段とおかげを蒙られることができるであろうとこう思います。皆さんどうでしょうかね。もちろん皆さんのことですから、神様と断絶を作るような事は無いだろうけれどもです、まあこの位のことだから、断絶作らないけれども、もっと大きな時には、ね。
 おみくじをあげる前に、もし、腹を立てたといたしましょうかね。もう、すでに、神様と断絶しておるわけです。ね。腹が立つような例えば、問題が起きたと。そこにおみくじをあげてみなきゃいけんです。ね。そすとです「はあ、ほんなこつ」とそこに答えが出てきますから。「お前の考え方が間違ごうとるぞ」と「お前こんなことをしろうが」「こんなこと言うとろうが」と。
 「だから、ここにこういう答えが出てきとるのぞ」と、分かるからいわば腹の立つ。けれどもすぐその次にです、ね、それを爆発させんですむおかげ、いや神様にお詫びをする心、または、御礼を申し上げる心がでけてくる。神様との断絶が全然無い。そこんところを神様は、ね、「どうしてこのようなことができるであろうかと、思えば、信心は、もう止まっておる」とおっしゃっておられる。
 信心はもう止まっておる。神様との交流は止まっておる。是はね節というと大変是は時々ある様にありますけれども、一日の内でもそういう小さい節はありますよね。イライラしたり腹が立ったり、情けなかったりと言う様な事が、例えば一日のうちに色々ありますよ。だからそう言うたんびにおみくじあげてみなけりゃいけん。ね。例えば、鉛筆でも立ててやってごらんなさい。ちゃんと答えがすぐ出てくる。(笑)
 私は、心はね、その様にして進めていくもんだと思いますね。ですからそこからですね、これはまだ、私の信心が足りぬからだを一つ分からせてもろうて一心に信心していけばですそこから、今度はね新たなおかげの展開があるわけです。これは全然予想もしないことになってくるです。まあだ答えを聞いてないから分かりませんけれども、もうそれこそ、筑水連合会でも大変有名な、ああ、方がおられます。
 その人の娘さんが、あぁ近所に嫁行っておられます。もう嫁行って十何年。それこそもう、金光様の御信者をもうとにかく誰でも、信心をせん者でも知ってるほどしに有名な御信者さんなんですね。ですからもらわっしゃる方も、その「あげん熱心な信心しなさる家庭の娘さんなら良かろう」で貰った訳です。そしてまあ十何年間か経って、もう子供さんが高校にまで行かれると言う位ですからね。
 ところがです事々にその姑親の方が、その方に言われる事がね、「もう本当にあんたばっかりは、貰いそこのうた」ち。「もう信心しなさる家から、貰うたら貰うたけんでよかろち思うちから、信心しなさる家から貰うたら、もう愈々あんたばっかりは、貰いそこのうた」ちこう言われるそうです。そん時に必ず親の名前、金光様の名前を出てくる。その姑親という方は、なんかお不動様かなんかを拝みなさるそうです。ね。
 もう昨日ばかりは、いよいよ爆発した。親から何百万かのお金を貰っておられる、そのお金を、ご主人が貸せかなんか言われたんでしょう。所が最近そういうふうで、もう子どもは大きいのがおるけれども。いつ自分が離縁されるや分からんち、言う様な中じゃから、是だけは握って離さんちゆうごたるふうで、まぁ貸しなさらない様な所からです。愈々辛く当たられるわけなんです、らしいんですよね。
 これはもう親が、それこそ私に財産わけとしてくれとる金じゃけん、これには手はつけられんというて、自分もそれを一生懸命握っておられるわけなんです。まあそう言う様な事からでしょうか。とにかく、信心のある家庭からもろたばってん、貰いそこのうたと言う様な事が、色々な形になって現れてくるからも。昨日ばかりはそん度に物もいわっしゃらん。主人もお母さんも。それが、何日間か続いたんです。
 とうとう昨日の朝ばっかりは堪り兼ねてですね。その椛目の金光様の事を、矢張り父から聞いとる。椛目、合楽を知らんのですね。ですからとにかく、椛目の金光様にお参りをして、いうならば、おみくじの一つでもあげて貰おうというて見えた訳です。昨日。昨日朝、御祈念の後でした。もうそれこそ「私は、だれだれの娘でございます」ち言わっしゃってわんわん泣きなさるばっかりで、(笑)その話が分からんくらい。
 その泣きながら、話されるのを聞かせて頂くと、成程まぁ言うなら、聞くも哀れな話のごたるばってんですたい。あれほどしの信心を頂いておられる方が、娘さんに、そこん所の信心のお渡しがでけていなかったと言う事は、本当に残念。普通から言うたら聞くも哀れなお話なんだ。けども信心頂いておるとするならです。もうそれこそ素晴らしい事なんですけれどね。
 成程信心なさる所から貰うたから、家もおかげが頂けたともう大体は、言わっしゃらなん位のものが何時もあるけれども、それが何時もそのおかげを受けきっていない訳ですよ。ね。ですから私は信心もですね、ここ迄は一つ身に着けとかなければいけない、と言うものをですね、子供にでも孫にでも、本当に分からせておかなければいけませんよ。まあそれはここまでと言う事は、色々ありましょうけれども。
 まあ今日の御理解から言うならです。どの様な事に成って来てもです。これはまだ私の信心が足りぬからだと、一心に信心していけばそこからおかげが受けられる。是からの信心はどうしたらよいだろうかというですね、もう人じゃない。周囲じゃない。ね。是は自分の信心が足りぬからだと、そこに絞られるだけの所までは、信心は身に着けておかなければなりませんね。私も足らんと思いますばってん、向こうも悪かと言った様な事じゃでけんて。向こう見ちゃでけんて。
 私も悪かでしょうばってん、おっかさんも悪か主人も悪かと言った様な事ではでけん。信心は是はまだ私の信心が足りぬから、是はまだ主人の信心が足りぬからお母さんの信心が足りぬからと仰ってないもんね。是はまだ私の信心が足りぬからじゃと思うて、それから一心の信心をして行くと言うそこまではですね、信心をいっちょ本当にお互いが分かっておかなならん、娘達にも息子達にでも。
 解らせておかなけらりゃいけん。そこが分かっておれば、どこに遠い所にやっておってもどこに嫁にやっても私は、安心だと思いますよね。けれども矢張りそこにですね、もうだからこのまま帰らんとこう言われる。というて親の元にもね、親はそういう熱心な信者さんですから、又とても寄せつきもされますまいし。から行く所がないばってん、もう家には帰らん覚悟で出て来た。
 けれども「私がそうっと出て来よりましたら、高校に行きよりますその息子が表に出て来てから「こげな早くにお母さんどこに行くの」っち心配して出て来た。「もう私は今日は帰らんかも知れんばの」っち言うちからその出て来た事がね、大変まぁ悔やまれて悲しくて堪らんと言う所で泣かれるわけです。そしたらまぁここで一言二言丁度昨日の御理解なんかはもうその人の為の。
 御理解の様な御理解だったですからね。昨日の朝の御理解なんかは。ですから御理解をちょうど御理解を頂きなさいというけれども、その御理解を頂こうという、その姿勢を見せられないですね。やっぱ泣きながら帰って行かれましたけれどもです。ね、私はだから「私がちゃんとお願いをしておくから、家にはちゃんと帰るより場がでけとるから、必ず帰りなさい」「ならまた帰りましょう」というて。
 そのお家に帰られたですけれどもです。もうあわや神様と断絶になろうとする所をです、おみくじをあげてあげに来なさった訳ですよ。言うなら昨日。ね。そいで合楽の金光様がこう言うて頂いたから、又是は又後からの御礼参拝がでけて来て、初めて答えが出て来る事ですけども。ね、おみくじを上げる事によってです。いうなら断絶せんで済む、例えあぁ親子との断絶もせんですむ。
 神様との断絶もせんですむ、まあおかげを頂かれたと言う事になりますよね。私は皆さんにもう日々一つおみくじをですね。様々な時に一つ上げて見なければいけません。どうぞそのおみくじと言う事をですね、間違いない様にして下さいね。お宮さんに行って、10円入れてからチヤランチャラン言わせてから、引くあのおみくじとは違うのですから。それでもね矢張りその時だけは、神様とですね通おうとする。
 神様と繋がろうとする一つの働きだから、それでもやっぱり当たるということ。ね。けども金光様の信心をさせて頂く者のおみくじというのは、今は私が申しました様な事ですから、ね、いわゆるそこから生まれてくる答えは、必ず是はまだ私の信心が足りぬからだという答えが出てくるわけですけれども、ね。そこに私は神様といわゆる断絶を作らんで済む、ね、もう信心がとどまっておると言う様なです。
 事のないおかげが受けられると思うのです。今日は特にどうしてこう言う事がとその思えば、信心はもう止まっておると言う所に、いわば焦点を置いて、聞いて頂きましたですね。だから私共が信心しておっても拝みよってもです、ね、いわゆる信心が止まっておる。停止しておる場合があるんです。それが恐い。ね。だからそこん所をですね、一つ神様と交流し続けれる事の出来れれるおかげを頂くために、まあ古風な表現ですけれども、おみくじという言葉を使って聞いて頂きましたね。
   どうぞ。